良さ
人が感じる「良さ」の種類は色々ある。
清々しさを良さとする人、荘厳さを良さとする人、真面目さ、とっつきやすさ、高価、安価、、、もう価値観が色々で、それぞれにそれぞれの良さはあるワケだから何が良いとかはなかなか無い。
今日いただいたお酒は実にエレガント。
これはワインの表現に度々用いられる。
瑞々しいというより、荘厳というより、やっぱりエレガントかな。
味にはバリエーションがある方が良い。
バリエーションがないと、自分の「良さ」は定まらない。
また、定まった良さも一年後、いや、ひと月後には変わったりする。
そんな不安定な「美味しい」という概念を扱う仕事を我々は日々しているのだ。
ずっと荘厳が良いと思っていたが、やはり僕にとって荘厳な味は合わない。
荘厳ってのはもちろん宗教的感覚から来るものではあるが、それは信仰の結果として人が作り上げた凄さという側面が強い。
辞書を引いてみて欲しい。
飾りという言葉が出てくるはずだ。
僕が思う美味しさはもっともっと簡素に感じるもの。
ただそれは「簡素なもの」では決してない。
ここが一番大切な所。
シンプルな料理とはまるで違う、簡素に「感じる」もの。
それは透き通る川の様な。
どこまでも透明だけど底が見えない海の様な。
川は山より出る一滴から海に至るまでが川という意味。
それ故に海は川でも山でもある。
だけど、簡素と見える出汁もじつはこんなに手間がかかるんですよ、、って実演するのはまた、僕の中の美意識には無い。
それを見せないから和食は美しいのだと「僕は」思う。
そこら辺も人それぞれで今は和食もパフォーマンス全盛期だからあってしかるべきだと思うし、否定もしない。
ただ、僕はそれはしないというだけ。
それを見せる美しさを僕は感じない。
それよりは見えない部分をお客さんが想像してくれる事を願いたい。
俳句は17文字しかないのに、直接的な言葉は使わない。
使わずに読み手の力量にある程度委ねる。
使うと下句になりやすい。
そんな繊細な感覚が長いあいだ日本人の特権だったはず。
それをわかりやすくして差し上げないと人は満足できないようになっているとしたら少し残念な気持ちになる。
毎日凄まじい花火を見ても僕はたのしくない。
たまには物凄く大きな花火も見たいけど、結局は線香花火の火が長持ちする事に一番集中してしまうかな。
そして、その火が落ちた後のわずかな静けさが一番美しいと思うのだ。
じゃあ結局、そういう感覚を言葉にすると何になるの?って?
それはね、
らーらーら、ららーら言葉にならない。